私の叔母は昭和18年に国民学校を卒業し、19年に女子勤労挺身隊でパラシュートを作っていたようです。20年終戦ですから、波乱に富んだ青春時代でした。挺身隊のとき胸に付けていた名札が、綺麗に保存されていました。
Sony NEX-5ND
太平洋戦争敗戦の前年、満25歳未満の女子に勤労奉仕の義務が
命じられました。女子挺身(ていしん)勤労令(昭和19年)です。
叔母は国民学校を昭和18年に卒業したので、翌年に勤労奉仕が
ありました。父の話だと、第六五八五工場はパラシュートの
製造をしていたのではないかと言っていました。挺身隊修了後、
すぐに敗戦となりました。
1年間胸に縫い付けていた名札は、丁寧にほどかれ、ほつれない様に
かがり縫いをされ、ずっと棚の奥の奥にしまわれていました。
別のところで、国民学校卒業時の寄せ書きも見付かりました。
ノートの表紙は日の丸に戦闘機です。
最初のページは全員そろった記念写真・・・
セピア色のモノクロ写真を、少しだけ戻してみました。
(建物は現在「所沢市立小手指中学校」前身の国民学校です。)
当時の恩師の書き込みから始まります。
「銃後の守り」という言葉は、戦争に行かなくても兵隊さんの
後ろから、私たちも戦っているという意味です。
「職域奉公」という言葉はすべての職業が、国家の戦争遂行という
目的に協力することを指していました。
当時の義務教育を終えた15歳の少女が残した言葉・・・
「武運長久」出兵した兵が、いつまでも無事なこと。
「忠孝一致」主君は親と同じである、日本女性・・・
「忠節」主君への忠義を守る気持ち・・・
このノートを読んでいた私の姉が「北田 利(とし)」さんに目が
とまりました。この名前に記憶があったからです・・・
姉の中学時代の恩師、と思われたのです。
最終ページの住所をもとに、私はお尋ねしてみました。
御元気な叔母の同級生にお会いできました。たしかに北田先生は、
姉の小手指中学校時代の恩師でした。
寄せ書きの最後に先生たちが添えた言葉・・・
「お互いに手紙を出して、励まし合い、よろこび、悲しみを共に
して、何時までも、仲良くしませうね」。
寄せ書きに添えた文章を、叔母に書いてくれた人たちの、その後の
人生が平穏であることを祈ります。
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