当麻喜明

中島航空金属(株)田無製作所

2016年8月11日 | 当麻喜明 | Comment0

001.JPG 2016.8.10 kyonen wa zerosen

航空記念博物館で、中島飛行機の特別展があったので見学に行きました。戦闘機「隼」のエンジンを見たかったのと、叔父の家の片付けで出てきた庶民の戦争遺構(?)を記念館の方にお知らせする目的もありました。

Ricoh GRDⅣ


002.JPG

富士重工業(スバル)の前身は、当時日本最大の航空機メーカー、
中島飛行機です。


003.JPG

004.jpg

中島知久平が群馬県尾島町に、大正6年(1917年)飛行機研究所を
つくったのがスタートです。群馬県ですが、会社に門があり、
守衛室の建物が見えます。

一方、1939年、中島航空金属(株)田無製作所は発足しました。
社長の中島乙未平は知久平の弟で、フランスで学んだ最新技術
で、航空機部品の鋳造にあたりました。


005.jpg

第七二号(戦時特例)
修了證書

木型工
當麻榮吉
昭和三年三月二日生

右者工場事業場技能者養成令ニ依ル所定ノ過程ヲ修了シタルコトヲ證ス

昭和十八年十二月四日

中島航空金属株式会社田無製作所
取締役社長 中島乙未平

私の叔父、15歳の時の証は、戦争と深くかかわったものでした。
父(叔父の兄)の話だと、門前で入れてもらえなかった叔父は、
守衛に強く訴え、それを知った社長が「面白いから会おう」と、
許可してくれた「特例」だったそうなのです。

ただ証書にある「戦時特例」は、太平洋戦争下における軍需物資の
増産を目的としたもので、内閣総理大臣(東条英機)の下に産業が
一元化され、勅令による軍需生産の独裁を許すものだったのです。

「木型工」とは鋳造過程の砂型の砂を木枠で固定させる職人技術
です。15歳で学んだ木型技術はその後の叔父さんを助けました。
私の叔父も、戦時下「中島飛行機」と接点がありました。


006.JPG

008.JPG

特別展には、現存する「隼」のエンジンの展示がありました。


009.JPG

010.JPG

エンジンと「隼」の計器です。遠くの航空機は隼ではなく、
復元された九七式戦闘機です。


011.JPG

013.JPG

復元の目的は、戦時下の航空技術研究ではなく、テレ朝が昨年
つくった「妻と飛んだ特攻兵」というドラマのためです。


014.JPG

気合いの入った番組担当者が、精細な資料を集め苦労して作製。


015.JPG

私はこの事実を知らなかったのですが、終戦から3日後に満州で、
攻め込んできたロシア戦車部隊に仕掛けた特攻、その機に兵士の
妻が搭乗していた事実・・・


016.JPG

017.JPG

階上で、九七式戦闘機の左の翼にあった展示物に気が付きました。


017a.jpg

当時の飛行服や手袋などが貸し出され、記念写真が撮れたのです。
事実を知らせるために苦労した担当者たちと、思いが通じ合った
企画でないことはすぐに分かりました・・・


018.JPG

019.JPG

航空記念館には、所沢飛行場の歴史展示もあります。変わった
建物は飛行場の「気象観測室」でした。


020.jpg

面白い建物です!屋上もあり、当時は目視観測も大切だった
のでしょうね。


021.JPG

あれ??


022.JPG

3階部分が、模型の建物と違いますね。


023.JPG

当然ですが正しいのは写真です。この建物は戦後進駐軍の車両を
修理する「ビクターオート」の建物になりました。
(画像は購入した郷土出版社「ふるさと所沢」より)

実は私の叔父(前出)と父は、このビクターオートの社員でした。
昭和41年に解散するまで努めていました。叔父さんは中島で覚えた
木枠造りの技術を生かし、父は打ち出し板金で「基地の街」所沢に
生きていたのです。


コメントする

公開されません

← ホーム  ↑ トップ