茅葺き屋根の父の実家は里山民家よりはるかに小さい / 山形県西村山郡大江町道海
我が家への帰り道、ブログの内容をぼんやり考えながら運転していました。
今日、仕事で出向いた高齢のご主人と家族さん、そして里山民家を思ったとき、父の故郷の茅葺き屋根の実家のことが、ふと思い浮かびました。
右の写真は2000年の10月にひとり、父の故郷を訪ねたときの写真です。

ここには里山民家と同じ囲炉裏があります。この囲炉裏は父の10代のころの仕事だそうです。
囲炉裏には不思議な魅力があります。夏でも薪を焚くのです。
私をもてなす叔父や叔母の昔話が始まりました...

山形県西村山郡のはずれにある部落に父は生まれ、母子家庭であったために、中学校の卒業後、すぐに大工の修行を始めたそうです。
修行を終えた父が、大工としての腕試しをするには、この部落は狭すぎました。父はこの部落を出て東京に向かう決心をしたのですが、頼りにしたのは、東京都練馬区にいる遠縁の親戚からの年賀状でした。
僅かな大工道具、片道分の電車賃を手にして、父は山形駅に向かい、夜行列車に乗りました。それは昭和30年代の初め、父、20才の夏。私がこの世に生を享ける7年前のことです。

父は5人兄弟ですが、男子は父ひとりだけです。
念願の息子にあえて祖父は、女性の名前に多い「満代」と名づけたそうです。
祖父は木こりでした。
主に杉の樹木を伐採して町の大工さんたちに売り、生計を立てていたそうです。

父が3才のとき、祖父は、いつものように数人の仲間たちと、伐採のために山に入りました。
山は危険が多いので、万が一のためにひとりでは入らないことになっていたそうです。
いくつもの山を越えると、各人にわかれ、各々が目当ての樹を探し始めました。

祖父は気に入った杉の大木を見つけたのでしょう、あらかじめ樹を倒す場所を決めると、斧で切り始めました。
常に安全に伐倒させるかを確認しながら、斧で切り込みを大きくしていきます。

何かが起こりました。杉の大木は祖父の方に倒れかかってきました。慌てて右手で幹を押さえましたが、もちろん持ちこたえられる訳はなく、祖父は杉の下敷きになり、身動きができなくなりました。
そして、祖父は助けが来るのを待ちました。その時の祖父の気持ちを、孫である私には計り知れませんが、そんな時でさえ、満天の星空や遠くで鳴く鳥たち、耳元で囁く虫たちは祖父にやさしく、祖父は気持ちを持ち続けることができたのでしょう。
これは孫である私の、そうであってもらいたかったという願望なのですが...

深い山に入るときは数日間、野宿することが災いし、祖父が帰らないことに気づき、仲間がふたたび山に戻ったのは、三日ほど経った後だったそうです。
祖父は病院に運ばれると、医師から右腕を切断することを強く勧められたそうですが、祖父はそれを拒否しました。
その理由を親戚たちに尋ねると「医療費がなかったから」と言われましたが、私はこんなことを考えました。
利き腕である右腕を失ってしまえば、雪深いこの地で5人の子どもたちを育てることができなくなってしまう...
そして数日後、わずかな可能性に賭けた祖父は、息を引き取りました。当時、3才だった父の記憶に残らない祖父との別れでした。

私は一時期、私は木こりや大工などの仕事を自然を破壊する仕事だと考えていました。
漁師が魚を守るように、祖父は再生可能な範囲で、家族を養うだけの範囲で、自然に敬意を払いながら、その仕事をしていたのだと考え直しました。

この祖父の存在が、今の私の仕事の場面でも、休日の散策の場面でも大きな示唆を与えているようです。
私にとっての丘陵散策は、「週末の日曜日」に狭山丘陵に行くのではなく、「週の始まりである日曜日」に、狭山丘陵の空気を大きく吸込み、続く1週間の仕事をするためのスタート地点だと考えています。

今日、仕事で出向いた、東京都練馬区のお客さんとは10年らいのお付き合いですが、もうすぐ90才になるご主人は、今日も私が到着すると、車いすで出迎えてくれました。
打ち合わせが始まると、ほほ笑みながら眼を閉じました。
私は高齢者の方の仕事をすることが多いのですが、いつも高齢の方に出会うと、いったい長い人生の中でどんな物語があったのだろうと想像します...
